この世に命を繋ぐ者=ピエロ=芸能人

シェイクスピアとピエロ

 
シェイクスピア作品のピエロ、あれはなんだったんだろう。
と、大学時代に初めてシェイクスピアに触れてからずっと疑問に思っていた。
ピエロ、ピエロ、ピエロ。道化師。
赤っ鼻で、奇抜な帽子を被り、顔にはおしろいを塗り、調子外れの歌を歌ったり踊ったり。
あんなことやこんなことを言ったり。
 
「こいつはなんなんだ」
ぜんぜんわからなかった。全くの異物だった。
悲劇「リア王」では、狂気にとりつかれたリア王が荒野を彷徨っているときに現れたピエロ。
彼にはどんな役割があったのだろうか、と考えた。
 
そして、思ったこと。
ピエロとは、命を繋ぐ者だ。
(「シャーマンキング」が好きだったから、この意味で、”シャーマン”と言ってみたかったけど、なんか違う感じがしたからやめにした。)
 
リア王において、なぜこの場面においてピエロが登場したのか、それは、リア王が今にも死にそうだったから、狂っちまいそうだったから、だからその気を紛らわそうと助けようと、冗談を言ったりからかってみたりした。
 
 
宮廷道化師というのがいたのも同じ理由じゃないか。
王様は笑う。自分が雇い入れたピエロがおかしなことをしているのを見て笑う。
「なんだこいつは、ばかじゃないのか、おっホッホ」
そうしていないと、正気でいられなかったからだ。
 
 
戦争に次ぐ戦争、そして内部抗争。
自分の首はいつだって狙われている、死ぬのは明日、いや今日かもしれない。
自分だけじゃない。部下も死んでいく。
王が生きているのはそんな毎日。だからこそ、笑う。笑い飛ばして、気持ちを現世に繋ぎとめておく。強く。頭の上にはひと振りの剣が蜘蛛の糸一本を頼りにぶらさがっている。
”ここに座りたい物好きはおるのか”
王は笑って延命する。心理的寿命の如何は、ピエロにかかっている。
 
 
と考えると、芸能人もピエロと同義かもしれない。
「あー、生きてて良かった!今日のコンサート、映画、ドラマ、見れて幸せ!明日も頑張ろう!!」
と思わせてくれる人たち。
この場合の相手は王様ではないけれども、辛い今を忘れ、幸せな気分を味わうことと引き換えにもうしばらく正気で頑張ろうと自分を調整することは、シェイクスピアの時代と変わらない普遍的な人間像なんだろうと思う。
 
芸能人は、ピエロと、姿形は違えど、仕事の内容は同じだ、人の命をここ(この世)に留めるお仕事。
 
 
高校生のころ、   THE BACK HORNというバンドの曲をよく聴いていた。
そのバンドの「キズナソング」という曲に、こんなフレーズがあった。
 
 
「誰もがみんな幸せなら 歌なんて生まれないさ」
・・・
「街中にあふれるラブソングが 少し愛しく思えたのなら 素晴らしい世界」
 
ああ、そうか!と思った。
歌というのは、芸能、芸術というのは、人がこの世に生き続けるために生まれ、そのためにある。
 
それを聴くのも、歌うのも、人。
人が人を支え、生きる。
シェイクスピアのピエロは、リア王を救おうとした。
しかしそのピエロも、仮面を剥げばその下の顔は悲しみの表情であったかもしれない。
その仮面が、ピエロをピエロとして、現世に繋ぎとめていた。
世間体とか、イメージとか、権力なんかが無理くり作ったような仮面。
被る時はいい。
被って、わーわーやっていると、目の前の人が喜んでくれることを知って、良い気持ちになる。
問題は、これを外したくなった時。
自分の存在意義とイコールで繋がれた仮面は、顔面の皮膚と強く密着している。
その間にわずかに許された狭く暗い世界でしか、リアルな自分を表現する余地がないことを知る。
 
 
ピエロがピエロの行為をやめたとき、リア王にとっての彼はただの男に過ぎない。 だろう。
ピエロはピエロをするから存在意義があって、静止したピエロの存在それ自体には、王はきっとなんの興味もない。
その辺は、今の芸能人と少し違うのかもね。
ピエロをしていない間の、プライベートな時間にも、ピエロとしての振る舞いを求められ、週刊誌に付きまとわれる。
 
ピエロを始めた前、後では個人の世界が大きく変わりそうだ。