沈黙ーサイレンス

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遠藤周作原作・ マーティン・スコセッシ監督の、「沈黙ーサイレンス」を観た。

(今日は「白い闇の女」も観た。)

 

沈黙はときに雄弁以上に物を語ると言われる。

紅茶に浸したマドレーヌから始まる、あの小説よりも物語りをする1秒があると言われる。(誰が言った。)

 

 

キリスト教は弱者救済のためにあり、その教えを守ればパラダイスが約束されているという。

かつてカタコンベで祈りを捧げたクリスチャンは、天上の世界で幸せに暮らしているのだろうか。

知らない。誰も知らない。知らないんだ。

 

ニーチェは「神は死んだ」と著した。

自分たちの死後のパラダイスを当てにして、今の命を軽んじる姿を軽蔑した。

そりゃあそう言いたくなるよな。

今ここにあるこの実体。

これが「確かにある」ということは誰もが肯定しなければならないし、誰も否定することはできない。

赤ちゃんだって、産み落とされた瞬間にその実体も権利も誰もが認めなくちゃいけない。

けれど、一方で死後の世界なんて誰も認めることはできない。

否定することもまたできない。

そんなものと、今ここに確かにある実体と、どっちに勝機があるだろう。

 

 

キリスト教に対する日本人の姿勢は、作中で批判されている。

「彼らは神を信仰しているのではない。

 彼らは、自分たちの平安を求めているだけなのだ、ただそのためにすがっているだけなのだ。」と。

 

 

遠藤周作がここで描いた日本人像は、今も変わっていないんじゃないか。

“ブラック”という言葉が変に安易に多用され、

“ストレンジな植物”が成長する腐敗した土壌が、日本で育ちつつある。

 

“ブラック”と罵る対象たちー日本、会社、団体、組合、集会、サークル・・・

嫌なら、やめたらいい。

変えたいなら、立ち上がればいい。選挙でもボイコットでもなんでもしたらいい。

そしてそのための能力を磨けばいい。

誰かがなんとかしてくれる。

そんなことはない。

 

日本においては、沈默しているのは“神”や“仏”ではなく、人のように思える。

沈默した神は、人にあれこれ考えさせるが、沈默した人はそうはならない。

 

ただ、使われるだけだ。