ヒトヒトリ1km

翠凛堂

革新とか、創作とか、上手な人は連想ゲームが得意だ。

なにやらカニやらをこねくり回して、常識のルールなんか蹴飛ばして、あり得ない組み合わせを生み出す。

その組み合わせが、“ありそうでなかった”ものであるほどいい。

みんなに受け入れられる余地が見込める。

 

 

最近、ヒトヒトリ1kmを考える。

目の前にヒトがひとりいたら、そのヒトを中心とした半径500mの円がある。

その円はセカイだ。

彼の好きなもの、興味のあるもの、得意なこと、作れるもの、今日までの経験、これからの将来、その他様々なものがある。

 

これは、確実にある。

どんなヒトにも、ある。

けれど、見ようとしなければ決して見えない。

 

ヒトと出会う。

そのヒトのセカイの“手前”部分をほんの少し覗く。

「あっ面白いな」と思うと、もう何度か会いたくなる。

会ううちに、そのヒトを中心としたセカイが円形に拡大していく。

いや、していかない、していくんじゃない、見えてくるだけ。

 

そう、見えてくる。

そのセカイの中にある要素が互いに連なっているその様子から、ヒトが見えてくる。

そのセカイにどんな要素があろうと、認めたくないものがあろうと、すべての要素は等しく中心点に帰結する。

自分が今目にしているそのヒトに繋がっている。

500m先の石ころにだって、彼の意思がある。

まあ、そんなものはきっと、他人には到底見えないんだけれど。

自分で把握しているのかさえ怪しいんだから。

 

 

 

ヒトヒトリ1km

直径1kmの円=セカイを常に纏っている。

だから、気の合うセカイを持つ人とは近づける。

セカイの成り立ちが似ているんだから、その分溶け合うことができるのだ。

それをお近付きになると言う。

逆に、セカイの成り立ちがまったく違うヒトと折りあえないのは当然のことで、バブルサッカーのごとくぶつかりまくる。

 

 

いま一緒に生きているヒトとは、どこかにセカイの共通項があるはずで、それを探ってわいわいやることは楽しい。

ね。

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