100円ショップの代替品 

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100円ショップにあるモノでも、驚かされるものがたまにある。

「あれ、こんなの100円で買えるの。」

「これはいいアイデアだな。」

 

けれど所詮、100円ショップで手に入れたモノ。

ハサミならハサミで、上位互換のモノとの良き出会いさえあれば即交換となる。

 

自分の哲学、理念と合うものと出会うことはなかなか難しい。

けれど、なくては困るものは生活の中に多く存在する。

 

だから、いつでも交換のきくように。

壊れても胸が痛まないように。

買う。

「どうせ100円だし。」

 

 

 

良き出会いはなかなかない。

なかなかないものだから、気をつけないと家中が“代替品”でいっぱいになる。

 

 

代替品に囲まれて送る生活が豊かなわけない。

ところが。

代替品として、と最初こそ思っていたものも次第に馴染む。

生活の一部となる。

 

代替品に囲まれての生活は、高い付加価値・感動を生まなくなる。

付加価値が下がるから、収入が上がらない。ひどいと、下がる。

収入が下がるから、本来の自分の哲学、理念に見合うモノが買えなくなる。

最終的に、誰でも手に入れられる、または誰かが手放した安物しか買えなくなる。

 

代替品しか買えなくなる。生活のデフレが始まる。

 

本来は使いたくないけれど、仕方ない。

と思うヒトと。

こんな使い方をされては堪らない、嫌だ、けれど、他に居場所がない。

と思うモノと。

不幸な関係が始まる。

 

 

モノは、誰かに作られて完成品とされた時点で、可能性はごく限られたものになる。

可能性を自力で広げられることはまずない。

モノは、自分では動けない。

 

ヒトはどうか。

ヒトに完成品なんてない。

自分で広げられる。自分で動ける。

可能性を自分で広げることができる。

 

 

この不況の最中、100円ショップの店舗数は伸びている。

つまり、100円ショップのモノが増えている。

つまり・・・。

言い換えれば・・・。 

 

酒を飲んで寝てしまおう。