存在の重さの浮遊性について

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ミラン・クンデラ “存在の耐えられない軽さ”

 

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

 

この本から受ける刺激は、僕にいろんなインスピレーションをくれる。

何でもないようなとき、新しい着想の種が芽を出す。 

 

ヒトの存在の重さ。

これには浮遊性がある。

 

朝、目を覚ます。

僕の隣には、彼女がいる。

僕の存在は、重い。

彼女から見て、重い。現実的な重さがある。

僕がそこにいること。このことに対して、多くの意味を含むからだ。

 

 

洗面、朝食、着替え、出発。

僕は電車に乗る。

僕の存在は、軽い。

同じ車両に乗り合わせた人から見て、軽い。

僕がそこにいること。

このことに対して、意味は極端に少ない。

「こいついつ降りるのかな。座りたいな。」

程度にしかない。

 

 

出勤。

僕は会社にいる。

僕の存在は、まあ重くも軽くもない。

出勤すること、やるべき仕事をこなすこと。

多少の雑談をすること。

ここに、重みを乗せて生きている。

 

そして、帰宅。

存在の重みもまた帰ってくる。

重さと軽さは交差して、身体を自由に行き来している。

 

いま感じている重さにしても、

"耐えられない軽さ"

に取って変わられるときは来る。

原因が何であるにせよ。

抽象的な質量でしかないこの存在の重さ。

コロコロコロコロ変わる重さ。

当たり前だけど、おかしいね。

 

ps.ワンピースの、グランドライン直前の島。

バロックワークスのMs.バレンタイン。

“キロキロの実“の能力者である彼女は、具体的な質量を(自分の体重を)コロコロ変えて遊んでたね。