書くことへの霊感ーミラン・クンデラ

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昨日、京都三条にある

 

media shop

 

という書店で、お店の方と色々なお話をすることができた。

その会話の中で、哲学という言葉から派生してフランス文学界の巨匠ミラン・クンデラの話を僕は持ち出した。

「シブいですねぇ~」とのコメントからは、なんでお前はここでクンデラを持ち出すのだと訝るようなニュアンスがあったように感じたけれど、それはきっと仕方ない。

なぜだか、このタイミングでパッと思い浮かんだのがクンデラだった。

 

クンデラは、大学生の時に発見した。

大学入学までただただ詰め込み勉強しかしてこなかった僕は哲学の授業を受けまくった。大学生=哲学書のイメージが、自然と出来上がっていたから。

僕は数あるテーマのうちから“存在”に興味を持った。

アリストテレスやハイデガーをかじりながら、わからないなりに理解しようとしていた矢先に、

 

“存在の耐えられない軽さ”

 

というタイトルの文庫本を発見した。

これが最初で最高のクンデラ体験となった。

 

みるみるうちにクンデラに夢中になった。

哲学と音楽のペンで表現された言い回しのひとつひとつに憧れ、魅力を感じた。

そしてまた、時代に翻弄されながらも自由と愛を渇望し、泥臭く生きる主人公トマシュらの姿に、現実を生きる自分の生活の空虚さのようなものを恥じた。

存在の軽さに耐えられない時には、アルコールの重石を身体に巻き付けて、単純な重力に身を任せた。

(こんなときには、存在の軽さは心の軽薄さに乗り移った。)

トマシュのドンファンな生き方は、自分の何ものをも肯定しなかった。

 

友人のなかでクンデラの話ができたのは1人しかいなかったけれども、彼はずいぶん変わった読み方をしていたように思う。

(もう忘れたけれど。)

とても賢く、まあまあ良い友人。

 

昨日のクンデラの話を受けて、執筆に対する霊感のようなものが降りてきたように感じた。

クンデラからこんなものを受けることは初めてで驚いている。

書き始めたものの途中で放り投げたものがいくつかあるけれど、それともう一度向き合ってみろということなのかもしれない。

 

存在

自由への招待

 

この2つの要素は大きな軸になるのだろうなあと、おおざっぱに思う。

 

ヤナーチェクを聞いたら、もっとヒントが降りてくるかも。