今の時間を生きるということー高野山参拝を終えて

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ムシムシ暑い日々が続く。

京都下京区平居町。

某喫茶店の店長、それから女性スタッフとの高野山参拝を終え帰宅した。

 

今回も、いつもお世話になっている光明院さんにて宿泊。

とても気持ちの良い宿坊で、ご住職のおもてなしには毎回多くを学ばせていただく。

宿坊のご案内|光明院

 

 

高野山では毎年8月13日に行われている「ろうそく祭り」を見学。

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年中行事 | 高野山真言宗 総本山金剛峯寺

 

ろうそくは約10万本も立てられていた(僕も数本立ててきた)ようで、道の両脇をろうそくの火に縁取られた参道は、息を飲む美しさであった。

 

先祖供養と個人祈祷も行い、なかなか充実した2日間を過ごしたわけだが、、、

2人と別れ、帰宅すればなんとも言えぬ虚無感に包まれた。

 

 

これは特に今回に限ったものではなく、毎度のことでハタハタ困ってしまう。

というのも、僕はいつも今というこの瞬間を本気で生きることができないでいるように思う。

そこに誰がいて、何をしていても、心が何か別の動きをしてしまうのを止められないでいる。

つまり、傍目にはずいぶんとボーッとしてしまっている。

・そこにいない誰か他の人のことを考えたり

・今の時間を客観的に眺めることしかできなかったり

・休日明けの仕事のことを考えたり

・孵化を待つアイデアのことを考えたり

 

そうして、さらには、

・この時間がもっともっと永遠に続くような気がしてしまう。

 

何となしに、自然とそんな風な姿勢でいる。心が。

もちろん、一瞬一瞬を本気で、ガツガツ生きようとすれば自然体でいられなくなるだろうし、また何よりも周囲との調和がうまく行かなくなるだろう。

とは言うものの、毎回のように、帰宅してから後悔している。

「あの楽しかった時間は、もう2度と来ない。

なぜもっと、心からその時間に浸らなかったのか?」

こう自分に問いかける。

もっと主体的に、自分の人生に飛び込まなければ、このままボーッとしたまま人生が終わるのだろうなと、26歳にもなって考えている。

同じ巡り合わせというものは、ない。

一期一会という言葉が、身にとても沁みてくる。