6年間履き続けている愛する靴 

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良い靴を履く

このことを気を付けるようになったのはいつからだったか。

振り返れば、良い靴との初めての出会いは意図せずしてドイツだった。

 

 

 

大学時代、オーケストラの海外演奏でドイツ・オーストリアを回っていた。

その途中のある夜。

私は仲間とビアホールで飲んだ帰り、石畳を陽気に歩いてホテルへ向かっていた。

 

すると、突然「ぱかん。ぱかん」と何かを打ち付けているような音が周囲に響き始めた。

ーこんな真夜中に、なんだこの音は?

不思議に思った。

 

「なんか、変な音がするな。なんだろうねえ。」

と話していると、その音はどうやら私の歩くリズムと同じ調子で響いてきていることにみんな気が付いた。

「おまえ、ちょっと止まってみろよ」

歩行をやめた。音も鳴り止んだ。

「歩いてみな」

すると、同時にまた「ぱかん、ぱかん」と聞こえる。

ーーー

 

おれだ!!Σ

靴底を見ると、見事にべろっと剥がれていたのだ。

こんな旅の最中になぜだ~~~( ゚Д゚)

私は壊れた靴を引きずりながらホテルへ帰った。

 

 

翌日。

公演前の自由時間に、先輩と買い物に出かけた。

ガレリアという、ドイツ中あちこちの都市で見かけたデパート。

靴屋へ直行し、さてどれにしようかと思い悩んだ。

 

ちょうどそのころ、大学生と言えばティンバーランドでしょと断言してしまえるほど、なぜかこのブランドが流行っていた。

薄く明るい色合いの茶色で、かかとの背が少し高い靴。

なにが良いんだあれは、と心の中で思っていた私はその靴の流行を遠い目で見ていた。

 

 

そしてこのドイツでも、そのティンバーランドを見つけた。

日本でみんな履いている、あの色のあの形のものが陳列されていた。

ふうん、やっぱ流行ってんのなあ・・なんて思っていると、同じティンバーランドであるものの、焦げ茶色でかかとの背も高くないデザインの靴をすぐ隣に見つけた。

 

すると途端に、この靴が気になりだした。

へえ~ティンバーランドにもこういうのあるんだな。

これ、いいかもしれない。みんなと違うし。

 

 

店の人に足のサイズを伝え、試し履きした。

あ、これ、いい。これにしよう。決めるまでが早かった。

 

このとき私は旅の途中で、所持金は限られていた。

ご存知のように、ティンバーランドはべらぼうに高いわけではないけれども、安いものではない。

しかし、この頃は「良い物を長く愛用する」という哲学の芽生えの時期であったこともあり、勢いで買ってしまった。

履くものがないからといって適当なものを買うよりも、せっかくのドイツだし記念になる買い物をしようと。

「それ似合ってるよ」と先輩に後押しされて喜んだことも加えて、これを買うほかなかった。

 

 

 

さて、その靴は今どうなっているか。

自分でも驚くのだけれど、まだまだ現役で履いている。今年で6年目となった。

不思議なことに、まったく飽きがこないし、むしろ履くたびに愛着が増していく。

今日も履いた。またさらに好きになった。

何度も何度もメンテナンスに出して、今日を迎えている。

 

 

この靴を履いて外に出掛ける。これがなんとも気持ちが良い。

さらに、この靴には上述のような思い出がある。

ミュンヘンで過ごした2日間が大切に詰まっている。

この靴を見ると、その思い出が蘇ってくる。

ミュンヘンのビアホールで長テーブルを大勢で囲んで大宴会したこと、そこで親しくなった外国人がコンサートに来てくれたこと、コンサート後にホテルの部屋でまた飲み明かしたこと、などなどが鮮明に映し出される。

 

 

ここには”もったいない”の精神なんかは微塵も含まれない。

本当に物を大切に、愛情を持って使うということにおいては、”もったいない”が入り込む余地なんてない。

私はまだ履けるから履いているのではなく、まだ履きたいから履く。

あちこち痛んだところを直しながら履き続ける。

”もったいない”は確かにそれ自体が美学であり日本を代表する民族単位の哲学であるけれども、この考えに固執する人たちこそ物を大切にするということを本当の意味で理解していないのではないか、と考えてしまうのはやりすぎだろうか。

この哲学を持たずとも、物を大切にしている人はいくらでもいるのだ。

 

”もったいない”と考えるときは、ちょっと立ち止まって自分はどこにポイントを置いているのかを確認するといいように思う。

 

 

こうした物と出会えたことはそれ自体が大きな喜びであるとしみじみ思う。

ミュンヘンで、靴が壊れてくれて良かった笑

そうでなければ、いま私の元にこの靴は存在しない。

この靴を履いて出掛ける喜びの削げ落ちた私の人生はどうなっていたのだろうか。

 

 

美は細部に宿るという。

一足の靴と出会ったか出会わなかったか、なんてそんなことは取るに足らない微妙な差異でしかないかもしれない。

けれども、そんな細部の集合体として今の人生があり、自分がいる。

「良い物を長く愛用する」

これをちゃんと教えてくれたのは、間違いなくこの靴だ。

となると、やはりこの細部こそ馬鹿にしてはいけないのだ。

 

 

同じ年の夏にヴェネツィアで購入したスエードの革靴も同様に、まだまだ現役で履いている。

と考えると、私は履物にかなり恵まれているのかもしれない。

 

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靴に関して、かつて友人にけちをつけてしまったことを思い出した。

これは大学4年のこと、吉祥寺で飲んだ帰りだった。

 

ザッザッザッザ。靴を擦って歩く友人に一言。

「そんな歩き方するのはな、良い靴に出会ったことがないからだぞ。」

と、生意気にもこんな講釈を垂れた。(ようだ)

 

すると、数年後に

友人「なあ、見ろよこの靴。」

 

私「ふうん、良さそうな靴履いてんじゃん。でもどうした、そんなのわざわざ見せるものでもないだろ」

 

「お前に昔あんなこと言われたからな、どうしても気になって良い靴を買うようになった。そしたら靴を擦って歩くこともなくなったんだ。」

 

「おれがか?そんなくそ生意気なことを言ったか??」

 

「確かに言われた。あれは腹立ったよ」

 

まあそうだろうな、と思う。笑

 

確かに彼は歩き方がスマートになり、靴を大切にしていそうだった。

自分が靴を擦ることが嫌いで気に入らないから、つい本音を言ってしまったのだろうけれど、これはこれで結果オーライだった。良かった良かった。

ただ、気をつけようとは思った。