ジュリアン・バーンズ著 土屋政雄訳 新潮社
【終わりの感覚】
昨日再読してみましたが、これはさすがブッカー賞を受賞した作品だけあって読ませます。
今回は、この作品に登場するエイドリアンという青年について、そして彼の息子について考えてみました。
(以下ネタバレを多く含みます。)
将来は学者や官僚になるであろうと期待されていた有望な若者-エイドリアン-の自殺。
その自殺の背景にはなにがあったのか。
主人公トニーは過去の記憶を呼び起こす作業を、そして現在から振り返って、その地点からだからこそ鮮明に浮かび上がってくる【埋もれた真実】を掘り起こす作業を通じて、エイドリアンの自殺の真実、さらには自己の記憶の真実に迫っていく。
エイドリアンの自殺について、トニーの母親は
「頭が良すぎたのよ」
と解釈するが、トニーにとってそれはあまりにも退屈すぎて俗物的な解釈であった。
つまらなかった。
仲間内では最も哲学的に先導してくれた彼の死を、そんな理由で解釈されることに腹が立った。
検屍官宛のエイドリアンの遺書にはこう記されていた。
「人生は、求めずに与えられた贈り物である。思索する人は、人生の何たるかを、それに付随する諸条件と併せ考える哲学的義務を負う。考えた結果、求めずに与えられたこの贈り物を手放すべきだという結論に達したなら、その結論の指し示すとおり行動することが道徳的・人間的義務である」p61
そして
「起こるがままの人生に身を任せる無価値な受身より、その人生に能動的に介入することの優越性」p62
これはトニーが説明するところの、エイドリアンの主張である。
このエイドリアンの死は何を意味するのか。
彼は学者や官僚を期待されるエリートとしての道を悠然と歩む過程にあり、プライベートでは彼女との幸せな日々を過ごしていた。
その中での自殺だからこそ、トニーを含めかつての仲間が議論する余地が大いにあったのだった。
ー彼のことだから、なにか重要な意味があるに違いないー
こうした先入観は、大きく分厚いクロスとなって真実を覆い隠してしまった。
歴史に埋もれた真実とは、こういうものなのだろうか。
エイドリアンの自殺に隠された秘密は、主人公トニーが老年になって、自身の過去の精算をしていく過程で明かされていくのだが・・・。
簡略に説明すると、このエイドリアンは。
ガールフレンドの母親との間に子供をつくってしまった。
そして自分の負うべきその責任が、「玄関先に待つ乳母車」が怖くて死んでしまった。
つまり、彼が頭が良すぎたとか哲学的な意味がどうとか、人生に対する批判を死で表現したとか、そんなものは無関係だった。
彼は、かつて彼が批判したーガールフレンドに妊娠させてしまった高校生ロブソンの自殺ー”俗物的な”と表現されたこの自殺となんら変わりない自殺をした。
「人生を見つめて思索する責任ある個人は、求めずして与えられた贈り物を拒否する権利を持つべきだ」p172
このエイドリアンの主張は、彼の行動の何を肯定しうるだろうか。
彼の自殺を肯定する力はあるにせよ、しかしガールフレンドに対する裏切りと彼女の母親との間にできた息子の命を拒否する権利までをも、彼は持っていたというのか。
私が一番考えた問題は、彼のこの息子のことである。
この息子は、出産をするには危険なほど高齢な母親によって、傷ついて生まれたのだった。
彼は40歳になるも、姉メアリ(メアリ=エイドリアンのガールフレンド。この息子はエイドリアンとメアリの母の子だから、メアリは彼の姉となる)の保護のもと、福祉施設で生活をしている。
この彼は、エイドリアンが自らの権利として行使した自殺すらできないまま、求めずして与えられた贈り物を拒否する権利を、そんな権利を持つことさえ知らないまま、苦しみながら生きている。
もちろん、その彼を支えながら生活をする元ガールフレンド・メアリも同様に苦しみを抱えて生きている・・・
一方で、自殺の権利と自らが果たすべき義務とのバランスが突如として大きく崩れ、その苦しみに耐えられなく逃避したエイドリアン。
エイドリアンの死は、彼の人生の清算でもなく、残された者に対する、そして世界に対する哲学的な批判でも導きでも、なんでもなかった。
彼は彼でまた俗物的な人間の一人に過ぎなかった。
なんのことはなかったのだった。
人生を見つめて思索する責任ある個人ーこの個人にすらなれない息子は、自らが置かれている不遇な状態のその責任を追及する相手もなく、それを考える力も持たず、苦しみ、怯え、生き続けている。
彼が父親を恨むことはない。
ただ、悲しいだけー
保護され、生き続ける。これが、彼に唯一残された権利。
父親エイドリアンが残したものは、自殺によって彼が放棄したものーこの世に生き続けるということーのみであった。
哲学的な諸問題を論じ、人を教え導く力のあった者が死に、その能力がない者、あるいは剥奪された者が生き残る。
バーンズは、この小説をこう締めくくる。
「累積があり、責任がある。その向こうは混沌、大いなる混沌だ。」p184
その姿が、息子なのだろうか。
累積が、責任が、混沌が、清算される、そしてまた累積が始まる。
ーー
これを書き終えた後、もう一度読み直した。
すると、エイドリアンには母親がいない、という事実があったことを思い出した。
エイドリアンには母親がいなかった。
これはまた、彼が自殺に至るまでに大きく関与したことは疑いようがない。
彼の両親のいさかいが、彼を父子家庭の環境に置いたことで、彼は母親喪失の悲しみを背負った。
この"求めずして放棄されてしまった権利”
ー両親のもとで生きるという幸せー
これをエイドリアンから奪ってしまった両親の、彼に対する責任は(両親にどんな事情があったにしても)両親によって果たされることなくエイドリアンに引き継がれ、彼がガールフレンドの母親と関係を持つことでそれが完結してしまった。
累積、責任、混沌、清算
混沌(累積+責任)-清算=0+X(x>0)
過去を読み解き、未来を見通すためのひとつの方程式。
ゼロにはならず、何かを伴ってまた次のサイクルに繋がっていく。
エイドリアンは両親が、そして彼の息子はエイドリアンが、放棄したものを引き継ぎ、つなぎ合わせてきた。
ガールフレンド:メアリは。
母親と、恋人エイドリアンが残したものを引き継ぎ、つなぎ合わせているが。
彼女もまたこのサイクルに関わっていたのだから、清算を担う補完役としての立ち位置は適当と言えるのかもしれない。
(彼女は当初主人公トニーと交際していたが、あるときエイドリアンに乗り換えた。トニーから言わせると、社会的ステータスのために。)
この観点から、彼女は決して無害な被害者として数えられる人ではなく、この方程式を完成させるべく必要な存在なのだ。
そして次に現れるであろう変数Xはまた次の人間へと引き継がれていく。
この連鎖は、誰によって断ち切られることもすべて破壊されることもない。
この作品において多用される表現[哲学的に自明なことだ]を用いれば、
あるものはある。ないものはない。
あったことはあった。なかったことはなかった。
これも哲学的に自明なことと言えるだろう。
とこんなことを考える一方、
人生を楽しく謳歌したい!
とのことから、好きな外国はイタリア。
イタリアへの旅は数回してますが、そのたびに人生の楽しみ方を学んでいます。
好きです。
結局は、こんなことを考えないほうが幸せに生きられる、のかもしれない。