自家焙煎珈琲店 Windy-ウィンディ
京都は東山区にあります。
最寄り駅は京阪線の清水五条駅。
知る人ぞ知る、京都の名店です。
雨の京都です。
紅葉はもう盛りを過ぎたのでしょうか。
色づいた葉が落ちた道を歩く鴨川も、またいいものです。
今日は1週間ぶりにウィンディに伺いました。
時間が過ぎるのはあっという間ですね。
京都での2回目の年越しを迎えようとしております。
コーヒーの味のブレ 原因を探る
なんと今日は、マスターもびっくりなコーヒーを点てることができました!(^ω^)イエーイ
「このコーヒーを毎回点てられたら、もう言うことないですわ」
と、マスターのお墨付き。
なんででしょうね~、と笑っていましたが、先週同じように点てたコーヒーはなんだか少し喉に引っかかってしまうような味だったのです。
「ミルで豆を挽いたときに微粉が出たのかもね」とマスターは指摘してくれましたが、果たしてどうだったのか。
微粉が混じっているかどうかなんていうのは見た目には分かりません。
分からないのですが、いろいろな要素を潰していった時に残る1つの原因として挙げられます。
同じように準備して、同じように点てて。
それでもいつもと違う味になったのなら、考えられる原因の数は少ないものです。
- 微粉混じり
- お湯を注ぐ時の時間のブレ(私は10回の落としを約15秒間隔で抽出しています)
客観的に考えうる原因としてはこれくらいでしょうか。
少なくとも、今の環境においては。
しかし、主観的なところで捉えると先週とはある点においてかなり違ったのかなと感じました。
それは気持ちです。
自分の気持ちはコーヒーに出てくる
今日はなんだか落ち着いていた。
何も考えない、フラットな気持ちで点てることができた。
それだから、美味しいコーヒーを点てられたのではないか。
「それは、そうかもしれんね」とマスター。
いま思い出しましたが、この考え方は
”コーヒーの人”
という本の中で言及がありました。
「だけど僕が一番気を付けているのは、僕自身が、人生の日々の充実感を持つこと。僕に嫌なことがあった日は味に出ますよ。だから常に充実した人生を送れるような環境をつくってる。」Bear Pond Espresso田中勝幸さんコーヒーの人 フィルムアート社 p43より引用
これってとても大切なことだと思います。
同じようにコーヒーを点てていたとしても、目に見えないところでどこか欠落するんですよ。
気持ちがブレていると。そしてそれが味に出てしまう。
ここに不思議はないようですね。
前職でのコーヒー
私が前の職場で点てていたコーヒーは、ある時期を境に味がブレることなく、また美味しいとも言っていただいたこともありましたが、それを私自身が本気で美味しいと思ったことはごく稀でありました。
というのも、それは「その味にしろ」という命令のもとに点てられた、納得のいかないコーヒーだったからです。
まあ他人に雇われてやっているからにはその通りにしないといけないのでしょうが、私はそれが嫌でした。
”求められる味を出すためには、こうすればいい”
というのはやっているうちに分かってきた。
だけれども、それはやりたくない。
自分が納得できないコーヒーだから。
というのを、しばらく抱えていました。
抱えていながらも、コーヒーの味はブレることなくやっていけましたね。
それはたぶん、この反抗心がブレていなかったから(笑)
「パンチが足らない!」
と言われた時には思いっきり反抗心をぶつけて抽出しました。
すると、今度は
「これでいいじゃないか」(^-^)と言う。
ああ、なるほど。
こんなにもストレートに気持ちは反映されるのか。
といい学びでした。
コーヒーを点てる 無心にフラットな気持ちで
そして今です。
私は誰に命令されるでもなく、美味しいコーヒーを点てたいという気持ちでいます。
ただ、これは毎回毎回考えることではありません。
もうすでに潜在意識のどこかに放り込んであります。
だから、だからこそ、いざ点てる時にはなんにも考えられないでいられるのです。
目の前にドリップスタンドがあって、コーヒーが入っていて、お湯があって。
そして自分がお湯を注ぐ。
ただそれだけをする。
何も考えずに。
きっとこれが、私のいちばんのスタイルなんじゃないかなと今日やっと分かりました。
今日は気持ちがとても穏やかでフラットだったのです。
朝の4時まで仮想通貨トレードで夜更かししてましたがw
(今朝の4時は、ビットコインキャッシュがアップデートされるというお祭りがあったのです!!!)
お昼ご飯に木屋町の「獅子金」でステーキを食べたからでしょうか。
自分が何で心と身体のバランスをとっているのか。うーむ
きっと今の生活は私にぴったりなのでしょう。
今日ウィンディで、マスターと学べたことは一生モノの価値がありそうです。
コーヒーを続けてちょうど1年。
また一つ壁を越えられたような気がしました。